爆発的なサーファーディスコブームだった1981年も終わり、いよいよ激動の1982年に突入。
トピックは、「キサナドゥー」が閉店し、新たに伝説のディスコ「ナバーナ」がオープンしたこと。
この店のユニークなところは、日替わりで女子大生がタダになるところ。
これは、集客が悪くなる平日の埋め合わせをする店側の工夫だったが、これが見事に的中。
ナンパ目当てのオトコが、お近づきになりたい女子大の無料デイを選んで来場するようになり、瞬く間に六本木一の人気ディスコになりました。
夏が過ぎると、ディスコ曲にも変化がありました。
長年のウエストコースト風ファンクが飽きられ、ボーイズタウンギャングの「君の瞳に恋してる」の大ヒットによって、往年のミュンヘンサウンドが復活。
なお、当時はミュンヘンサウンドとは言わず、ボーイズタウンディスコと呼ばれていました。
それと同時にニューウェイブやロックがかかるようになりました。
しかしこの頃登場した「カフェバー」等遊びの多様化により、平日は閑古鳥が鳴くようになりました。
一方、自分のディスコイベントビジネスは頭打ちになりました。
学園祭ディスコはコネ作りと下準備がけっこう大変だったし、ダンパの集客も口コミ頼りで骨が折れる。
口コミ以外になんとかまとまった客を効率よく開拓できないか?
そんな思いで、志賀高原の中でもダントツ人気だった「一ノ瀬」のホテルでバイトしました。
スキーも楽しめかつホテルの客とも知り合えて、ディスコビジネスの集客に結びつくだろう。
でも、その読みは見事にはずれて、早朝5時起きで朝飯の配膳、昼はレストランでホール、つかの間の休憩をはさんで、すぐ夕食の配膳。それが終わればホテル併設のディスコの店員。営業終了は午前1時。
つかの間の休憩といっても2時間弱で、ナンパはおろかスキーをやる時間もない。
しかし劇的な出会いがありました。
ある日、ホテルのレストランに大量の女の子を引率してきた人がいたので、引率者に話をしてみた。
すると、それはその頃めちゃくちゃ人気のあった、学生ツアーのスタッフ(添乗員)だったのだ。
スキーシーズンの途中でホテルのバイトをやめ、春にはそこのスタッフになりました。
その夏に、サーファーブームの究極を行くイベントが組まれました。
「関東学生ツアー連盟」が「波之上丸」を貸切って与論沖縄ツアーを組むというもの。
女子大生・女子高生 約1,000人、添乗スタッフは20人程度。
片道2日の旅程では、船上ディスコ・ファッションショー等が繰り広げられ、メチャ盛り上がりました。
ツアーは1回につき50人~100人ぐらいの集客規模なので、今までとは桁違いに顔が広くなりました。
あの頃は、ひと声かければ200人ぐらいはすぐ集まったものです。
ツアーでマスコミ関係の人と知り合い、テレビ局のキャスティングと雑誌の素人モデル斡旋も始めました。
ツアー客のアタマ数を最大限に利用した、互いにおいしいWin to Winのビジネスでした。
ダンパもやればやるほどディスコが顔パスになり、お金を出して踊りに行くのがアホらしくなりました。
つまり、スキーツアー → 春のダンパ → 南国ツアー → 秋のダンパと年間通して儲かり、さらに顔の広さを利用してTVや雑誌のキャスティングでも儲かるというビジネスモデルができました。
特にダンパの原価は箱代のみ、キャスティングに至っては原価ゼロなので、正にボロ儲けでした。
大学のサークルがアホらしくなったので辞めると同時に大学にも行かなくなり、その後は「学生ツアー」で顔を広めつつ、非常に儲かる「学生集客斡旋ビジネス」に勤しみました。