1981年・・・この年はサーファーディスコが最も一般的になった年でした。
私は1年間の浪人生活を終え、「渋谷にあってかつ共学」という理由だけで選んだ国学院大学へ入学。
(当時の青学の1-2年は、キャンパスが厚木だったから受験しなかった)
この、キャンパスの立地だけで選んだのが大正解で、渋谷だけじゃなく、六本木にも青山にも代官山にも広尾にも近く、定期通学途中には池袋・新宿も入っていたので、遊ぶのに何かと便利で最高でした。
それで、冬はスキー・夏はサーフィンみたいなSURF & SNOW系の同好会に入りました。
スキーは岩岳が同好会のメッカで、190cmのATOMICの板・TYROLIAのビンディング・NORDICAのブーツ。
波乗りはGODDESSのトライフィンで七里ヶ浜・鵠沼・辻堂・茅ヶ崎あたりをウロチョロ。
学生の間で人気急上昇中だったウインドサーフィンを初めてやったのもこの頃。
日常のサークル活動は、形だけのトレーニングと飲み会で、二次会は決まってディスコ。
サークル全員で行くから人数にして30人~40人の束でスクエアビルに行く。
似たような曲でワンパターンのサーファーダンスを踊るんだが、ひたすら騒いでるだけでつまらない。
高校まではディスコに無縁だった人が大学生になって遅咲きした「大学デビュー」が幅を利かせていて、踊りはヘタクソだし、過去がマジメなので武勇伝もなく薄っぺらで、会話が噛み合わずおもしろくなかった。
地方上京デビュー組もたくさんいて、そういう人はさらに気が合わなかった。
あと、高校・浪人時代に大学生とさんざん遊んできたので、もう倦怠期になっていたのかも。
そんなわけで、この頃から「今さらディスコ?」といった感じで、急激にディスコ熱が冷めていきました。
その頃、六本木に客を取られて廃れていた新宿のディスコが、六本木に対抗せず「中高生」にターゲットを絞って、六本木とは全く違う選曲で盛り上がっていました。
ミュンヘンサウンドに似たキャンディーポップや振付など、70年代と似たノリがむしろ私の体になじみ、客層も昔からのツワモノも多かったので、新宿に出戻った時期もありました。
ディスコに行くだけじゃつまらなくなったので、仲間とディスコで金儲けしようって話になりました。
具体的には大学祭ディスコの出前。
自分は高校3年から大学祭ディスコビジネスのスタッフだったので、ノウハウはバッチリで話は早かった。
まずは、使い回しが利くようにミラーボール・パトランプ・可変式ストロボ等の照明一式とマイクやミキサー等DJ機材一式と壁に貼る銀紙を買い揃えた。(オーディオ一式は高くて保管場所もないので自前)
あとは知人や知人のツテを伝って、その人に紹介料と売上マージンを支払うことで名義を借り、早稲田・学習院・東大・日大・跡見等、自分の大学以外の人気大学の大学祭にディスコを出店して大儲け。
もうひとつの柱はダンパで、ディスコを貸切って200人程度集客したら70万円ぐらい稼げました。
このように、ディスコイベントビジネスは「楽しくて儲かる」ので病みつきになったが、一方では「友達を利用して自分だけいい思いをしている」と批判され、多くの仲間を失いました。