1979年になってもしばらくはミュンヘン隆盛の時代が続いたが、フリーダンスが主流だった新宿にステップ復活を思わせるような振付が登場しました。
最初は「リングマイベル」の手踊り。
お次は「ジンギスカン」のボックスで極めつけは「めざせモスクワ」
他にもいろいろあったなぁ。
フライハイ・愛でブラジル・怪盗アリババ・ジャングル・ダンスに夢中・インザネービー・ラビングユーベイビー・ダンスに夢中・ウオンテッド・ストーンウォール・サンチャゴラバー・ガッタゴーホーム・・・
自分はもともとステップのような画一された動きが好きなので、この手の曲がかかると2、3人でビシっと揃って踊って、輪の中心でダンスフロアを仕切ったもんです。(竹の子族の原型)
踊り疲れてドリンクを飲みに行くと、必ず女の子に「踊りを教えて!」と声をかけらる。
しかし、この頃のディスコは低年齢化が著しく、一斉取締りが頻繁にあってビクビクしていました。
ディスコが一般認知されたとはいえ、補導でもされたら一発退学でしたからね。
当時、私は高校が板橋で自宅が大塚だったので、通学途中の池袋のディスコにもよく行きました。
授業が終わって雀荘で時間潰しつつディスコ代も稼ぎ、麻雀で勝ったらそのままロサ会館の「アダムスアップル」に飯食いに行き、可愛い子がいればついでにナンパして持って帰るという日々でした。
アダムスアップルは生バンドが入る粋なディスコで、ダンスレベルも高く店特有のステップもありました。
愛はノンストップ・ギャラクシー・おしゃれフリーク・バビロンの河・ブギウギダンシングシューズ…
ステージ前から2列目までが常連で、3列目以降は常連のステップのマネをして踊っていました。
マネしてる女の子達を口説くのは超簡単で、目が合ってニコって笑ってステップを教えてあげれば即効。
平日は赤商・池商・十文字などのカワイイ子がたくさんいて、楽しい思い出がたくさんあります。
池袋は他にもZEST・ペリカンハウス・ノンノというディスコがありましたが、総じてガラが悪かったです。
秋から冬にかけてサーファーファッションの波が押し寄せ、自分も御多分にもれずそれっぽく変わろうとしましたが、心のどこかで「大学デビューの軟弱なサーファー野郎といっしょにされたくない」というツッパリ精神?があり、最初はなかなか抵抗がありました。
特にサーファーカットがオンナみたいな軟弱なイメージで受け入れられず、とはいえ服だけはサーファーっぽくし、髪型だけはしぶとくアフロのままでした。
そしてこの年、客としてではなく「DJ」として客を楽しませることが加わりました。
きっかけは初夏 東京大学の五月祭。
その大学祭でディスコパーティーを主催していた東大の超遊び人と知り合い、11月に開催される東大駒場祭のディスコとダンパの企画運営に加わることになったのです。
「大学祭のターゲットは、大学に憧れている高校生だろう。だから学園祭のDISCOのターゲットは高校生。選曲も高校生が最適」との読み+経費削減で、私がDJを引き受けることになりました。
この目論見が大当たりし、大学祭わずか3日間で純利益100万円を荒稼ぎ。
これを機に、高校生ながら大学生とつるんで遊ぶようになり、さすが天下の東大生に寄ってくる女子大生は津田塾・ポン女・トン女等クオリティーがすこぶる高く、自分の人生にとっても大きな転機になりました。