1979年
この年はティーンエイジャーにとって一大転換期でした。
1978年まではツッパリが幅を利かせ、暴走族や踊りが上手い不良がもてました。
特に暴走族はキャロルやクールスの影響で「ファッションの一部」でしたし、みんなの憧れでした。
しかし、1978年暮れの道交法改正で暴走族=集団危険行為とされ解散に追い込まれる等、社会情勢的にツッパリが「白い目」で見られるようになり、だんだん時代遅れになってきました。
その代わりに台頭してきたのがサーファー。
そういう過渡期だから、まずファッションが大変革。
髪型はパンチパーマー → サーファーカット
服はバギー ・ハーレムパンツ → sassonのディナージーンズ
女の子はニュートラ・ヤートラ → ハマトラ
車はシャコタン → 赤のファミリア+吸盤キャリア
これだけ大きく変化した過渡期なので、1979年は街中カオスでした。
例えば、見た目サーファールックなのに、乗ってる車がシャコタンとか・・
服はサーファーなのに、毛先にまだパンチパーマーの名残りがあるとか・・
女子高生も、レイヤードカットなのに制服はロンタイにペチャカバンとか・・
そんな流行の大きな変化によりディスコシーンも大きく変わり、ツッパリが幅を効かせる新宿は廃れ、サーファーが幅を効かせる六本木がメインストリームになっていきました。
私を含めた高校生達は、一からサーファーファッションを研究し、大学生の真似をしながら一生懸命背伸びをして、ドキドキの六本木デビューをしたものです。
ディスコの雰囲気ですが、この頃の新宿と六本木の間では相当な違いがありました。
新宿は1978年の面影を残した「ミュンヘンサウンド」が主体で、振付やステップも若干残っていました。
「ジャングル」「ガッタゴーホーム」「愛でブラジル」「ボーントゥービーアライブ」「めざせモスクワ」「ウオンテッド」「怪盗アリババ」などで向い合わせか輪になって踊ったものです。
この輪踊り集団が低年齢化&エスカレートし、チャイナドレス風の奇抜な衣装を着て飛んだり跳ねたり。
さらに、曲に合わせて笛吹いたり合の手入れて一般客にぶつかったり足を踏んだりしてトラブル続出。
サーファーディスコが流行りだしフリーで踊る人が増えてきた時期なので、ますます輪踊りや振付は場所を取るし流行遅れにもなり、一般客からは邪魔な存在になっていきました。
見るに見かねたディスコ側もドレスコード(男子のツッパリ風ファッションお断り)や、輪踊り禁止令を発令。
輪踊り集団 (元祖竹の子族) を出入り禁止にし、さらに一般客も失った新宿は一気に勢いを失っていきます。
もうひとつの流れはテクノディスコ。
「ツバキハウス」「サーカスサーカス」がその代表格でしたが、一過性ブームですぐ廃れました。
一方六本木や赤坂は、新宿系ミュンヘンサウンドは一切かからず、黒人系FUNKかAORが主流。
中には黒人バンドが生演奏するオシャレな店もあり、エントリーフィーも3,000円以上と敷居が高め。
年齢層も新宿よりはるかに高く、オトナの空間といった感じ。
振付・ステップ等は一切なく、同じような曲で淡々と踊っていました。
輪踊りをする元祖竹の子族のガキっぽい雰囲気を嫌う人達や、そもそも振付自体を好まないフリーダンス派は、どんどん六本木や赤坂に活動拠点を移していきました。
当然ディスコの名門「GET」もカオスでした。
GETといえばニックさんが回していたSOUL専門ディスコというイメージですが、この過渡期に限ってはそんなことはなく、ワンドリンク付き500円という安さから、15時〜19時ぐらいは中高生のたまり場でした。
選曲もそういう客層に合わせたので、SOULは一切かからず、アラベスク・ジンギスカン・ドゥーリーズ・ビレッジピープル・ボニーM等のミュンヘンディスコがふつうにかかりました。
他のディスコではかからなかった、エキストラエキストラ・愛はノンストップ・ベビーシッター等、当時としては古い曲もかけてくれたので、ステップを教えるというタテマエでナンパするのに最適でした。
最新曲で、ハーレムハッスル・ハッピーラジオ・ブギウギラブトレイン等もかかかっていました。
しかし、たまに20時以降に行くと選曲が全く違い、最新FUNK & SOULオンパレード。
ティーンエイジャー好みの曲は全くかからず、「これが同じ箱か?」と思わせるような違いっぷりでした。
私もたまにDJ体験をさせてもらったり、本当にGETにはお世話になりました。
水曜日だけは「R&B SOUL オールディーズ」で、1965年のMOTOWN・1970年の前後のJAMES BROWN・1974年前後のフィリーサウンドがON AIRされ、自分がディスコ通いする前のステップは、この日に覚えたものです。