1981年と1982年のディスコ事情は全く違います。
まず1981年
六本木が猫も杓子もサーファーディスコ!といった感じになり、同時に敷居も非常に低くなり、今までのパッと見不良が激減し一般大衆や大学生が激増しました。
新宿は真逆の「不良ティーンエイジャー向け」にシフトしたので、六本木との違いが顕著になりました。
↓が六本木のディスコヒットです。
↓が新宿のディスコヒットです。
どうですか?全く違うのがよくわかりますね。
六本木は1980年の延長で、あいかわらず単調な踊りと似たような曲のツナギ。
踊る楽しさより、南国っぽいサーファーディスコの雰囲気に酔う感じでした。
ON AIRされる曲は今のダンクラでよくかかっているようなFUNKとAOR。
一方新宿は、かつて輪になって踊る集団を締め出してお客が激減した反省で、「カーニバルハウス」「ハローホリデイ」「ワンプラスワン」等、竹の子族歓迎の箱が続出。
中高生が大好きな、わかりやすく軽いノリの「キャンディーポップ」が中心で、ミュンヘンディスコ時代に戻ったように、みんな輪になって同じ振付で踊っていました。
竹の子専用ディスコ以外は50%がサーファー系FUNK・30%がミュンヘンやキャンディーポップ・20%がAORや歌謡曲といった感じでむしろ六本木よりバラエティーがあっておもしろかった。
当時「今日は六本木?それとも新宿?」といった感じで、アダルトな雰囲気に浸りたいなら六本木・楽しくギャーギャー踊りたければ新宿というふうに、その日の気分で遊んでいました。
客層としては、筋金入りの不良=新宿、大学デビューのボンボンとお嬢=六本木、超遊び人=両方でした。
今のダンクライベントでも「新宿系」「六本木系」に二極分化しているのは、当時の名残りです。
1982年前半は「ナバーナ」がオープンし、サーファーディスコブームが続いていました。
変化があったのは秋以降。
今まではFUNKがメインだったんですが、新たにNEW WAVE・AORをメインにする箱が登場してきました。
さらに、ボーイズタウンギャングの「君の瞳に恋してる」が大ヒットし、「QUE」等一部のディスコを除き、そういう曲調(ボーイズタウンディスコ=ハイエナジー)が主体になりました。
冬は、ボーイズタウンディスコ・NEW WAVE・AORがメインになり、FUNKは見向きもされなくなりました。
当時のヘビロテ曲は「ルックオブラブ」「愛の残り火」「ホールドオン」「堕ちた天使」「シティエーション」「ハレルヤハリケーン」「今夜はフィーリングナイト」…モノの見事にFUNKは一曲もありませんね。
というわけで、1982年後半はFUNKはマイナーになり、白人系がメインストリームになりました。
一方新宿もキャンディーポップは飽きられ、新宿初の本格的サーファーディスコ「B&B」もオープンし、FUNK以外のAOR・NEW WAVEも取り入れ、アダルト路線へシフトしていきました。
つまり、六本木のディスコと新宿のディスコの差がなくなったのです。
特に「B&B」は六本木のディスコよりも人気があって、サーフボードのブランコやガラムやジョーバンのムスクの香りがムンムンする中、ビッグウエンズデイの映像をバックに、ツボを押さえた選曲で盛り上がり、夜な夜な濃いサーファーで溢れかえっていました。
さらに、渋谷のディスコが勢いを増してきた頃で、六本木に飽きた遊び人は「スターウッズ」「キャンディーキャンディー」といった最新ディスコに流れました。
その後、ティーンエイジャー御用達「ラスカーラ」もオープンし、「ディスコは渋谷!」になりました。
六本木と新宿のディスコは、渋谷に客を奪われて、平日は閑古鳥が鳴き出しました。
さらに、新宿の「ワンプラスワン」でナンパされた女子中学生が強姦殺人されるという大事件があって、それを受けてディスコの深夜営業が禁止になり、ジ・エンド。
一気にサーファーディスコブームが去り、カフェバーなる新ジャンルが流行。
「プレステージ」「ラジャコート」「クレオパラッツィー」等、元祖クラブのような狭い箱が人気でした。
ファッションもサーファーブームが去り、DCブランドが街を席巻しました。
私はこの頃ディスコから一気に足が遠のいたので、ディスコの思い入れもせいぜい1983年までです。