1980年
サーファーファッション一色になり、今までツッパリが幅を利かせていた町の様子が一変。
波乗りしないのにファッションだけは一端の「陸サーファー」が街に溢れました。
その頃付き合っていたサーファー女子大生に誘われ、六本木デビューしたのが「fou fou」
当時、1番人気があったディスコでした。
ちなみに当時のスクエアビルは
B2F キャステル
B1F バレンティノス
2F ファーマーズマーケット
3F ギゼ
5F サンバクラブ
6F スタジオワン
7F チャクラマンダラ
8F ネペンタ
9F フーフー
10F キワニス
その後は、B1Fが玉椿・10Fがキスレディオ等に変わりました。
このスクエアビルは、1982年ぐらいまで「ディスコビル」として隆盛を極めました。
スクエアビル以外の名店としては、キサナドゥ(後ナバーナ)・メビウス(後レオパードキャッツ)・レキシントンクィーン・キュー・メイキャップ・ボビーマギー・グリーングラス・ジル・マジック等がありました。
また、ディスコは東京だけでなく、軽井沢・苗場・志賀高原・栂池・斑尾・与論島に乱立していました。
ディスコ内は、後ろから見ると誰が誰だか区別がつかないほど、男女共に同じ髪型・同じトップス(アロハの裏地や縦ボーダーのプルオーバー・サーフブランドのトレーナー)・同じパンツ(エンジェルフライト・ファーラのホップサック)・同じ靴(トップサイダーのデッキシューズ・ライトニングボルトのビーサン)でした。
「POPEYE」や「Fine」の影響で、見事なまでマニュアル化されたサーファールックでした。
この変化を肌で感じたのは、浪人生だった頃。
現役で大学生になっていたディスコ友達と久々に会おうってことになり、リボンタイにハーレムパンツといったディスコファッションのイメージだった彼女がサーファールックに激変していた。
あれはカルチャーショックだったなぁ。
これを機に、内心こんなオンナっぽいの似合わねぇよと思いつつも、今までとは180度違う路線の「トレーナー+ファーラ+デッキシューズ」を身にまとい、まだパーマーの癖っ毛が取れない髪を必死におろして、六本木のディスコに通うようになりました。
しかし、その頃の六本木はDJがツナギにこだわっていたのか同じような曲が延々かかり、しかも、ツナギが未熟で一曲一曲が長く「次の曲まだかよ?」って感じ。
踊り方は、今までのステップのような覚え甲斐のあるものではなく、いたって単調。
手を波のように動かしながら、体を左右に揺する踊り(ウエイブ)・互いに向き合い肩を揺する踊り(グランファ)・鶏のように首を突き出し、それに手が同調する踊り(ジゴロ)…
俗称「サーファーダンス」です。年代別に記述すると、
フリーク (1979)
グランファ (1979)
ウォーク (1979)
ウェイブ (1980)
ドラフトモンキー (1980)
カウボーイダンス (1980)
ジゴロ (1981)
サーフモンキー (1981)
例外でバスストップ(恋のハッピーパラダイス・ウォークライトナウ)やチャチャ(ボス)も復活しました。
かっこよく踊るには腰・肩・首を微妙に後乗りさせることでしたが、これがなかなか難しく、特にジゴロは首を鶏のように動かせないと「五木ひろし」のようになってしまうし、ウェイブは腰と手の波のくねりを後乗りで同調できないと「お遊戯」っぽくなってしまいます。
とはいえ、ステップと比べるとワンパターンで2-3曲も踊ると飽きてしまうので、ディスコ通いも70年代と比べたら激減し、この頃よりダンパの開催側や学祭などのイベントDJになりました。
スクエアビルの大箱を30万前後で貸切って、5,000円の入場料を取って200人ぐらい詰め込んだものです。
ちなみに六本木でオンエアされた曲は、シャラマー・ウイスパーズ・レイクサイド・ダイナスティー・キャリールーカス等のソーラーサウンド、レイディオ・バーケイズ・ブラジョン・クール&ザギャング・コンファンクション・SOSバンド等のFUNKに加え、ボズスキャッグス・ルパートホルムズ・ドゥービーブラザーズのようなAOR、ジョージデューク・ハービーハンコック・シーウインド等のフュージョン系、パブロクルーズのようなウエストコースト風ロック、そして、山下達郎もよくかかってました。
この傾向は、1982年まで続きました。